ふえふきなつかし座談会1「養蚕」

1.蚕が増えてしまい、庭にビニールシートを広げて覆った様子。無数の蚕に囲まれて

----- この地域で盛んだった養蚕についてお話を聞かせて下さい。昔はどこのお家でも蚕を飼っていたのでしょうか?

前沢さん 減反政策の奨励金が出て、うちでは昭和45年にやめたんですけども、それまでは田植えと養蚕してました。

古屋さん その頃は米麦が主体でね。あと養蚕は現金収入としてね。

前沢さん 私がお嫁に来た時、虫なんか一度も飼ったことないのに、部屋中虫だらけで(笑)。桑をご馳走してお蚕大事にしました。「おぼこさん」なんて呼んで。

古屋さん まあ、お蚕はね、こんなこと言うとあれだけれども、まあ、いやな仕事でね。汚くて臭くてね。

前沢さん でも、かわいかったですよ(笑)。

古屋さん 針の先で突いたぐらいの稚蚕から始めてね、だんだん繭が近くなると、透き通った飴色になるだけど、そうするとこれはまあ、いうなればお金の塊だからね。そりゃ、かわいいさ(笑)。

前沢さん おぼこさんに桑をあげる、ガキに飯をくれるってね、それぐらい差があった(笑)。おじいちゃんたち、そう言ってました。「ガキども飯食え!おぼこさんに桑あげろ!」って(笑)。

----- 蚕はとても大切にされていたのですね。信仰の対象にもなっていたんですか?

前沢さん はい、各集落に蚕影神社の石碑がありました。

高野さん お宮の中にあった。

2.今も市内のあちこちに桑畑が残る

3.市内の神社には蚕影山の石碑がある。八代町鉾衝神社

----- 当時、養蚕をしているお家は多かったんですか?

高野さんだいたいやってたねぇ。

石原さん「今何時で?お蚕見せてくんろ」なんて、近所歩いたりした(笑)。

高野さん今みたいに家が全部サッシでもって、全然声が聞こえんなんていうじゃなかったから。全部開けっ放しでもって、みんな誰でもいつでも見れるっていう、そういう風だったから。隣近所だって全部が全部見れるんだから。

前沢さん開けとかないと(笑)。

古屋さんまあ、家の造りからして田の字に造ってあってね。今よりずっと開放的でしたよ。

4.デリケートな稚蚕を共同飼育するための施設もあった。写真は境川町に残る稚蚕共同飼育所跡

5.丸籠。この上に蚕座紙を引いて稚蚕を飼育する

----- 蚕の世話は、一家の方全員でしたのですか?

古屋さん稚蚕の時には一つの家の中へ、紙張(しちょう)っていって、紙をぐるっと張ってね。ホルマリンで消毒したりするんだけど、その時には大体主婦がやりましたね。

高野さん おかあちゃんがやるよね。桑の葉を毎日取ってきてあげて。

古屋さん最初はまあ刻んでね。桑だってちゃんと場所があるんだから、やたら取ってこればいいってわけにいかんの。そのうち大きくなると、一枚の葉っぱそのままにやるようになるけど。そのたびに、だんだん蚕座(さんざ)を広げていかなくちゃいけないの。

6.蚕は母屋で飼育された

7.回転蔟から繭を取り、毛羽を取る

----- 養蚕は母屋の一室で行われたのですか?

高野さん いや、全体だよ。

前沢さん最初は一室だけれど、最後は全体です(笑)。

石原さん自分達の寝る所も食べる所も無いっていうくらい(笑)。

前沢さんお蚕の櫓を、まあ、八畳間に2本ぐらい通すんですよね。間はこのテーブル(90センチ)くらいしかないの。そこで、大人は休んで、子供だけは畳の部屋に休ませてって。

高野さん休むとこないだから、お蚕に全部占領されて(笑)。

----- じゃあ、蚕と一緒に生活してたんですね。

前沢さんお蚕さんかわいいですよ。

高野さんお蚕と一緒に、寝てるだもん。櫓の間に寝てるだもん(笑)。

相原さん夜寝てると、お蚕が葉っぱを食べてる音がザワザワザワザワねぇ…においもする。ザワザワ、沢山の数だから、まとめて大きい音になるんです。

高野さんそれこそ、川の流れるような音だよね。

古屋さん雨が降ってるような音。

----- その音の中で眠ったんですか?今聞くと、ちょっと不思議な光景ですね。

8.蚕に住居を占領された。蚕棚の間の小さなスペースで眠ったという

----- 家庭で布なんかも作ったんですか?

前沢さん 機織みんなやりました。

高野さん ほとんどの衆はお蚕してたから、そのお蚕でもって糸を取って、その糸を染めて、うちで機織した。

石原さんお嫁に持って来るものは、みんな家織りです。布団から、着物から、甲斐巻きから全部。

高野さんみんな一軒に一つずつあったもん、機織機は。

相原さん正絹だよね(笑)。

----- 今だとすごく高価ですよね(笑)。

高野さんボコボコはしてるけどね、手織りだからね。

相原さんブツブツがけっこうできるんだよね。

前沢さん田植えが済むと、年寄りのお婆ちゃんは糸を紡いで、それで染屋さんに出すんですね。自分で縞を考えて、色を考えて、それで秋から冬の間は機織。道を歩くと母屋からね、機織の音が聞こえました。

9.糸取り機。煮た繭から糸を引っ張りこれに巻きつける

10.機織機

11.光沢が美しい絹糸

12.着物も全て手作り

----- 養蚕するお家が減少していったのは何故なんでしょうか?

古屋さん養蚕ってことは、案外手間がかかる。みんな覚えがあると思うけど、七日の「おぼこさんが上がった」なんて日になると、俗に言う「よびき」なんてことになる。もう泣いてもダメよって仕事があるんですよ。

前沢さん「よびき」ってね、お蚕が上蔟(じょうぞく)するのが、日中だけじゃないんですよね。

古屋さん 齢が来ると食べるのをやめて、所構わず繭を作り始めるんですよ。それが、朝、出勤だからどうぞご勘弁ってわけにいかんで、夜1日ざんざんに疲れてるような時に始まったりしてね。そこから付き添わなきゃいけない。山型のものやら、ボール紙のものやら蔟(まぶし)へ収納しなきゃいかん。やたらどこでも作っちまうと、良い繭ができないから。それがだいたい一年に春、夏、秋、冬、晩秋と4~5回ぐらいあった。

高野さん晩晩秋もあったよ!

古屋さんそう、それが常に満杯に行くといいけどね。天気の様子だとかでやぶれちゃって。養蚕より果樹の方が計画がたったので効率がよかった。良く言われた労力の配分ってことがね。養蚕は案外、用多くして益少なしで…

13.蚕が繭を作るときの足場となる藁蔟

14.回転蔟のアップ。蚕のマンション?!

古屋さんそれに生糸の相場がね、横浜とか神戸の世界的な出荷の相場があって、それに左右されるんですよ。アメリカやヨーロッパよりも安いというようなことで、せっかく苦労しても、世界的な好不況によって左右されてしまう。アップダウンがあるということで、だんだん苦労ばっか多くて益が少ないと…。趨勢はね、良い勢いで果樹に転作したところが、なかなか収益がいい。見てくれがきれいだし、それにこっちの口にも入れられるし(笑)。

15.回転蔟は吊り下げて使用した

16.繭出荷の風景

石原さん私が昭和24年に結婚したんですけど、そのとき集落に9件しかなかったんですよ。全部が農家で、お蚕で生活してたものですから、お蚕様様で飼ってきました。けれどもだんだん他が入ってきましてね、お蚕しない家も入ってきました。60件以上建ってしまいましてね、皆さん果樹畑をするようになってしまいましたので、お蚕なんてとてもできる状態じゃなくなってしまいました。だって害虫駆除の消毒をしなくちゃなりませんからね。だんだん変わってきちゃって、結局無くなっちゃいましたけど。

高野さん一方は虫を殺す、一方は虫を育てるだから。ちょっと何か消毒をやって桑にあたれば、お蚕が全滅になっちまう。果樹を始めた家はお蚕が飼えなくなって、順々にお蚕が減ってった。うちでお蚕やめたのは、俺が24の頃かな。あの時に勤め行くっていったら一ヶ月働いて5千円ぐらいになった。おやじが「5千円なればいいや、お蚕してるより勤め行け」ってね。

----- なるほど。そうやって養蚕は消えていったのですね。<座談会は「稲作」編につづきます>

17.蚕蛾に卵を産みつけさせる種紙

18.繭を明りにかざして見分ける選別器

19.蚕室を暖めるための暖炉

20.回転蔟(手前)と蚕棚(奥)

21.繰糸機。煮繭の為の鍋が付いている

22.稚蚕のために桑切り包丁で葉を細かく刻んだ

養蚕についての皆さんのお話は、本当に興味深いものでした。特に、蚕と同じ部屋に寝たという話には驚きました。沢山の蚕が桑を食む音を聞きながら眠るのは、どんな気分なのでしょう。想像すると少し神秘的な感じもします。でも、ほんの数十年前は、現実に普通のお家で体験できたことなのですね。桑を育て、蚕を育て、糸を取り、布を織り、着物を作る。この一連の行程を全て家庭で行っていたとは、今考えると驚異的です。昔の人はすごいなぁと思わずにいられません。養蚕業は、蚕の生態を観察しながら行われるもの。本当に身近な生き物だったのでしょう。「おぼこさんは可愛かった」という言葉が、印象的でした。(取材:さっさ)

八代町 永遠のふるさと写真集写真提供:「八代町永遠のふるさと写真集」より

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八代郷土館資料所蔵・撮影協力:八代郷土館

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なつかし座談会(2) 「稲作」

なつかし座談会(3) 「暮らし・祭り」

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