初めての薪能鑑賞

能「融」 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

2010年10月20日、石和町で行われた『第十三回 笛吹薪能』に行って来ました。今まで能とは全く縁がなく、今回が初めての鑑賞です。実を言えば、これまでも少し興味はありました。能面とか鼓とか、ドラマチックで洗練されたイメージの写真などを見ると、グッと引き寄せられることがありました。それでも「よし、見に行こう!」とならなかったのは、やはり能の格式の高さ、敷居の高さに、恐れを抱いていたのかもしれません。そんな私に勇気をくれたのは、笛吹観能会の長沢さんのお言葉でした。石和で薪能が行われるようになった経緯をお尋ねした取材の中で、こんなことを仰っていました。

「あなたのように能は敷居が高いと思って敬遠している方は多い。しかし、せっかく地元で一流の能楽師の舞台を見られる機会です。能がどんなものなのか、まずは見てみることからです。公演の前に、武蔵野大学名誉教授の増田正造先生が、あらすじや見所を解説して下さいますよ」

確かに、遠巻きに見ているだけでは何もわからないままです。初心者にも心強い事前の解説もあるのなら、ちょっと見に行ってみようかな…。そんなふうに背中を押されたのでした。

石和にある鵜飼山遠妙寺

鵜飼山の山門

笛吹薪能は、昨年までは石和薪能と呼ばれていました。市町村合併により石和町は笛吹市になったので、それに伴っての名称変更です。そもそも、どうしてこの石和で薪能が行われるようになったのでしょうか?実は石和は、能の演目の一つ「鵜飼」の物語の発祥の地なのです。長沢さんは「鵜飼」の物語に縁の深い「鵜飼山 遠妙寺」のご住職です。

「一般的には鵜飼というと岐阜の長良川を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、能の世界で鵜飼と言えば、それは石和のことなのです」

そう長沢さんにお聞きして、ちょっと衝撃を受けました。遠妙寺の縁起である鵜飼の伝説は聞いたことがありましたが、それが能の演目になっていることを今まで知りませんでした。地元に住んでいながら、このことを知らない人は意外と多いそうです。自分とは無縁と思っていた能が、こんな身近に関わりがあったことにも驚きました。長沢さんのお話は続きます。

「『鵜飼』の演目は、言うなれば地元の文化遺産です。ところが知らない方が多い。もっと多くの方に知ってもらって活用すべきではないかと、40年ほど前遠妙寺の境内で初めて薪能を行いました。ですがその当時、地元の人たちには関心がなかったようです。観客は東京などから来た人たちがほとんどでしたね。一流の能楽師の出演料は高額です。残念ながら、その後も続けていくことはできませんでした」その後しばらくの間、石和薪能は行われませんでした。ところが数十年の時が過ぎ、事態が動きます。

「ある時、石和中銀会という会の記念行事として何かしようという話になりました。それならば是非、石和薪能を復活させようということになったのです。それが今から13年前のことです」

以来、地元の方々の協賛と(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団、石和観能会の皆さんのご尽力により、石和薪能は毎年開催されてきました。そのおかげで私のような初心者も、思い立って能を見に行くことができるのです。

「能は確かに、最初は難しく感じるかもしれません。でも何度も見て慣れていくうちに、だんだんと理解するものなのです」

まずは見てみること。それが能の世界への入り口です。そして今、その入り口は私たち市民に向かって開かれています。

会場までの路を照らす篝火

会場となった笛吹市スコレーセンター

開催当日、会場である笛吹市スコレセンターに着いたときには、すっかり暗くなっていました。駐車場からセンターまでの路に点々と設置された篝火が、幻想的です。入り口を抜けてホールに入ると、大勢の人で賑わっていました。そこに集う方々は皆さん大人の風格。とても上品な着物の女性もいらっしゃって、落ち着いた中にも華やかさを感じました。ホールには「能彫会」を中心に県内の愛好家が制作した能面が展示されています。どれも丁寧に作られていて、とてもきれいだと思いました。そして特別展示として、狂言方の山本家に伝わる能面も展示されていました。写真撮影は不可でしたが、500年以上前の重文級の面を拝見することができたのは、貴重な機会でした。

素敵な着物の女性

県内の愛好家たち制作の能面

どのような方たちが、能を見にいらっしゃっているのか興味があり、ホールに座っていらした男性に声をかけました。優しい笑顔の50代の男性です。八代町ご在住で能鑑賞は今回が初めてとのこと。お仕事柄、文化人の方と接する機会が多く、そういう方の多くが能を好まれていて、話題にものぼるのだそうです。戦国時代の武将たちが能を好んでいたことにも興味があったのだとか。「わからないかもしれないけれど、とにかく一度見てみようと思ってね。百聞は一見にしかずって言うでしょ」とおっしゃった時、大きく頷いてしまいました。私と同じ動機でいらした方がいると知って、とても嬉しくなりました。能面をご覧になっていた二人連れの女性にも、少しだけお話を伺いました。お一人は甲府市にご在住で、能はお若い頃から何度もご覧になっているそうです。お連れの女性は今回が初めてだそうで、「今日は彼女に教えてもらおうと思ってるの」と笑顔でおっしゃっていました。頼もしい先輩がついていらっしゃるのは心強いですね。楽しんで下さい。こうして見ると、今回の公演で能に初めて接するという方は少なくないかもしれません。笛吹薪能開始当時の理念が、静かに、けれど着実に実を結んでいるようです。

観客席は満員 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

今公演のパンフレット

いよいよ席に着きます。400名収容の会場はほぼ満席です。観客の多くは年配の方々です。でも若い方もチラホラいらっしゃいます。皆さん、楽しみに開演を待っているのが伝わってきます。舞台の上はとてもシンプル。五色の揚幕と笹と注連縄のみです。舞台の下には室内用の篝火が炎を揺らしていて、薪能が神事であることを思い出させてくれます。前述の長沢さんの司会で幕が開きました。増田正造先生の解説はとてもわかりやすく、お芝居への興味をかきたててくれます。初めての能鑑賞。未知の世界に胸がドキドキしてきました。

シンプルな舞台 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

増田正造先生の解説 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

さあ、始まりました。羽織袴姿の男性数人が静かに舞台に出てきました。皆さん姿勢がきれいです。「仕舞」という、謡だけで囃子を伴わない舞です。演目は「敦盛」。舞手は佐久間二郎さん。山梨県甲府市出身の能楽師です。地元出身の方が、こうして活躍されているのを拝見するのは、とても嬉しいですね。紋付袴姿は男らしくて素敵。しなやかで凛々しい舞を見せて下さいました。

仕舞が終わり、狂言が始まりました。昔の言葉がわかるかしらと不安に思う気持ちはすぐに吹き飛ばされました。かしこまった言葉なのですが、これがちゃんと理解できるのです。新喜劇みたいに面白い『二人袴』というお話でした。独特の節回しや台詞の間の取り方が、おかしさを倍増させています。すごく楽しいお芝居で、すっかり引き込まれてしまいました。私も含めて会場は大爆笑です。こんなに笑うなんて予想もしていませんでした。笑い涙を拭った時には、なんだかスッキリと清々しい気持ちになっていました。

狂言「二人袴」 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

休憩を挟んで、いよいよ能が始まります。今回の演目は「融」です。囃し方の人たちが舞台に出てきました。ワキ(脇役)の役者さんも出てきました。何か唄うように言っていますが、どうしましょう、内容が全然わかりません。先ほど増田先生にあらすじを教えていただいたので、どんな場面かはわかるのですが、昔の言葉がほとんど聞き取れません。後れて老人役のシテ〈主役)の役者さんが登場しました。面を着けているのでお顔はわかりません。でも足取りがちょっとおぼつかない感じで、この役者さんはかなりご高齢なのだなぁと思いました。ワキのお坊さんとシテの老人は、立ったまま代わる代わる何か言っています。内容は全くわかりません。お囃子のリズムも単調で、…まずいです、だんだん眠くなってきました。ぼーっとしているせいか、時々面の口が動いているように見えてきます。そんなはずはないんですが、面が目を伏せたりしているようにも見えます。だんだん集中力が無くなって、とろーんとしてきました。やっぱり難しいです。私に能なんて百年早かったのかもしれません…

と思ったその時、シテの老人が田子を担いでよろよろと舞台前方へ進み出ました。そして舞台の上から水を汲む仕草をしたのです。その瞬間、眠気が吹っ飛びました。空のはずの桶に水が入ったように見えるのです。その桶の揺れ方、担ぐ棒のしなり方、老人の肩にかかる圧力…。水の重みが目に見えます。私の前に座っていた方も、このシーンにはぐっと身を乗り出していました。素晴らしい演技で観客を圧倒して、シテは幕の向こうへ下がって行きました。

アイという役の人が出てきて、長い、長ーい台詞を始めました。能楽師のみなさんは、お腹のそこから声が出ているので、音響設備を使っていなくても会場に響き渡ります。その声が私の内臓を振動させているみたいで不思議な感覚です。聞いているうちに、独特の節回しがだんだん心地よくなってきました。

前シテ 老人 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

汐汲みの名場面 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

さあ、後半です。シテは前半とは別の役を演じます。先ほどは老人でしたが、今度は風流な貴族「融大臣(とおるのおとど)」の亡霊です。解説で、融大臣は光源氏のモデルになった人物だと聞いていたので期待が高まります。あ、出てきました。白い衣装にワイルドなヘアスタイルの鬘です。増田先生によると、この扮装は今公演の特別な演出だそうです。演じているのは、さっきの老人と同じ人のはずですが…。足取りが若い!動きが軽やかで素早いです!身長も、さっきより高くなったように見えます。体格もほっそりと見えるし、まるで別人みたいです。なんだか衣装のせいだけではないような気がします。うわぁ、かっこいいです!すごいオーラです!その舞の優雅なこと。動きの一つ一つにときめいてしまいます。なんという美男っぷり!光源氏、納得です。気づけば音楽は猛烈なクライマックスを迎えています。なんと!鼓と太鼓の刻む激しいビートは、私の心臓の高鳴りとシンクロしているではありませんか!激しくなる笛と地謡に煽られて、私の興奮も最高潮へ…。会場の緊張感がすごいです。今まで体験したことのない方法で、感情を揺さぶられているような気がしました。自分の中に眠る原始的な感情が反応したような、そんな感覚でした。融大臣が遠くを見る表情がとても切なくて、胸が締め付けられました。その時、自分でも思いがけず、頬にポロリと熱いものがこぼれました。美しい…このまま、いつまでもいつまでも見ていたい…そう思いました。けれど、融大臣はすぅーっと消えて行きました。ワキも囃し方も去った舞台は何もなくて、夢でも見ていたかのようでした。

後シテ 融大臣の霊 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

夢の後、我に返ってあれこれ思い返してみました。まず前半の老人、背中を丸めた姿勢から、おぼつかない足取りまで、全てが演技だったのですね。すっかり騙されてしまいました。前半の舞台は、長閑で穏やかな凪いだ景色を演出していたことが、今さらながらわかりました。それにしても、オーラってこんなふうに出したり引っ込めたりできるものなのでしょうか?結局、シテの役者さんのお顔は最後まで見ていません。それにもかかわらず、すっかり魅了されてしまいました。本当に本物のスターを見たと思いました。不覚にもクライマックスで感極まってしまったのは、その前の狂言の舞台で気持ちよく笑って、心がほぐれていたことが引き金になっていたような気がします。能と狂言がセットで上演される理由を、私なりに納得しました。そして憶測なのですが、昔の人も、私と同じようにスターに魅了される興奮を楽しんだのではないかと思いました。人の本質が変わらないのだとしたら、時代が違っても同じ感動を味わったはずです。昔の観客と同じものを楽しんでいる、このことにも特別な嬉しさを感じました。これが伝統芸能の素晴らしさなのだと思いました。

橋掛りで佇む融大臣 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

以上が、私の初めての能鑑賞です。謡の内容は全然理解できませんでした。その良し悪しも含めてです。謡がわかれば、もっともっと面白いのかもしれません。でも、わからなくてもすごく楽しめました。思い切って見に来て、本当に良かったです。見る目を持たない私の感想は、全く的外れかもしれません。それでも、能は敷居が高いとためらっている方に、少しでも参考にしていただければと思い、初心者が感じたことを書きました。次回見る時は、また違ったことを感じるのかもしれません。他の演目も見てみたいので、最近はインターネットのチケットセンターを覗いています。たくさんの演目を見て、そしていつか「鵜飼」を見に行 くのが、私の小さな夢になりました。笛吹薪能が回を重ねるごとに、この街に能を愛する人が確実に増えているのです。(取材:さっさ)

幽玄の世界が繰広げられた 写真提供:(財)ふえふき文化・スポーツ振興財団

 

ページトップへ

〒406-0834 山梨県笛吹市八代町岡513-5 Tel.055-287-8851 Fax.055-287-8852
Copyright 2009-2012 Fuefuki-syunkan.net. All Rights Reserved.