福光園寺の「吉祥天及び二天像」についての講演会

吉祥天坐像及二天像

国指定の重要文化財「吉祥天坐像及二天像」

参加者

甲府市からお見えの丸山さん(左)と甘利さん

吉祥天像

精悍なお顔立ちの吉祥天像

福光園寺は歴史薫る美しい古刹です。2009年11月7日、今日はこのお寺に県内各地から、数十名の人が集まりました。国指定の重要文化財「吉祥天坐像及び二天像」とその信仰をめぐっての、新しい研究の講演会が行われるのです。

参加者は講演に先立ち、実際に吉祥天像や、お寺に伝わる多数の貴重な文化財を拝観し、写真撮影をすることができました。この仏像は県内でも屈指の名品と言われています。美術品としての価値は、今の時代、億の単位であろうと言われているそうです。参加者のお一人、甲府市からお見えの甘利さんは、「私みたいに写真が趣味だと、人が撮った写真を見るより、自分で撮影したいものなんですよ。」と今日の講演会を楽しみにされていたそうです。

実際に拝観すると、吉祥天像はとても大きく感じました。張りのあるお顔と涼やかな目元が、若々しい女性をイメージさせます。それでいて、しっかりと張った肩のラインなどが、重厚な印象を与えます。繊細さと頼もしさを同時に感じさせる、不思議な魅力がありました。

脇侍の持国天像と多聞天像は立像で、勇猛できりりとしたお顔立ちに魅了されます。三尊揃って対面すると、その堂々とした風格に圧倒されます。目に見えない神秘的な何かが、発せられているようでした。

今回の講演は福光園寺の庫裏をお借りして行われました。講師は、「中世の借金事情」(吉川弘文館)の著者でもある、国立歴史民俗博物館教授の井原今朝男先生です。先生の分かりやすくて楽しいお話からは、朗らかなお人柄が伝わってきます。謎解きのように展開されて行くお話に、ぐいぐいと引き込まれてしまいました。以下、講演の内容をかいつまんでご紹介します。

参加者の皆さん

熱心に聞き入る参加者の皆さん

福光園寺の住職様

福光園寺の住職様

県立博物館協力会の永嶋さん

講演会を主催した県立博物館協力会の永嶋さん

講演では、中世の借金事情についてのお話を伺いました。当時この辺りに住んでいた人たちの暮らしを理解する上で、大変興味深いものでした。

日本の稲作は古代より、区画水田で行う管理農業でした。灌漑用の土木工事や用水の管理をする郡司、名主の下で農村は営まれました。郡司は春、品質の良い種籾を農民に貸付けます。秋になると、農民は5割の利子をつけて郡司に米を返済します。これは一見、法外な利率のように思われますが、一粒の種籾は翌年、千粒の米になります。つまり千倍の収穫を得るのです。利息を払っても、農民は十分食べて行くことができました。

井原今朝男先生

講師の井原先生。お話が上手で引き込まれます…

米の収穫時期は田によって違いますが、名主が国衙に税を納める期限は決まっていました。収穫が納税に間に合わない場合は、名主が農民の立て替え払いをしていました。

また、年によっては収穫高が悪くて、決められた年貢を納められない農民も出てきます。そんな時、「480日経ったら利子をとってはいけない」、「返済は借りた額の2倍まで」と言う政府の法律があったそうです。つまり、借金が膨れ上がることなく、止まるしくみの社会だったのです。生活苦で農民が土地を逃げ出せば、名主も共倒れとなることを知っていたのです。「もちつもたれつ」の共同体では、皆が困らないよう、社会が回っていく為に借金のシステムがありました。この時代の借金は、「社会の潤滑油」であったと井原先生はおっしゃいます。おおらかとも言うべきその時代に、現代も学ぶことが多くあると思いました。この共同体社会の名残が、今も残っているものがあります。「無尽」です。山梨県は全国的にも有数の、無尽の多く残る地域です。歴史は今の私達と繋がっているのだと、改めて思いました。

一宮町にある国分寺跡

福光園寺本堂内。手前の丸い鏡は市の指定文化財

さて、話を吉祥天に戻しましょう。古代末期から中世にかけて、豊作を祈る為、また凶作への恐怖から逃れる為、国家を挙げて祈祷の法会を行いました。「鎮護国家」の要はまさしく「五穀豊穣」にあったのです。そのため、各国の国司は国分寺をはじめとする国寺で、五穀豊穣のための法会を行いました。その時の儀式「吉祥悔過(きちじょうけか)」の本尊がまさに豊穣の神、吉祥天だったのです。さらに、地方の国衙では子宝信仰と結合して、吉祥天への信仰は益々深まっていきました。それにもかかわらず、現在、吉祥天像はあまり残っていません。奈良や京都に少しありますが、いずれも独尊像であり、諸国の吉祥悔過で用いられた三尊像がまったく知られていませんでした。

ところが、2006年に山梨県立博物館で開催された「祈りのかたち」という仏像展で、この福光園寺に伝わる吉祥天三尊像が紹介されました。井原先生はそれをご覧になって、大変驚かれたそうです。福光園寺も国分寺跡も、この笛吹市内にあります。さらに甲斐国の国衙も、笛吹市内にあっただろうと言われています。井原先生は「この吉祥天三尊像こそ、甲斐国の国庁で、部内寺院の僧侶を集めて行われた『吉祥悔過の本尊』と見てまちがいない」とおっしゃいます。現存する吉祥悔過の本尊としては、全国唯一のものだそうです。

この吉祥天像の胎内墨書銘には良賢聖人が大勧進を行い、檀越として在庁官人の三枝氏、橘氏の名前が記されていました。制作されたのは鎌倉時代、寛喜三年(1231年)十月と記されています。この年は鎌倉時代を通じて最大規模の大飢饉(寛喜の飢饉)がおこりました。数年前より天候不順が続いていて、相当数の餓死者が出たそうです。そんな時に勧進をするのは並大抵のことではありませんが、三枝氏、橘氏らが率先し、地域の人々が皆で寄進して、この仏像が作られたのでした。旧暦の十月と言えば、収穫時期とも考えられます。この吉祥天像に込められた、人々の思いの強さはいかばかりだったでしょう。お話を聞きながら、胸が苦しくなってしまいました。

木造香王観音立像

木造香王観音立像。県の指定文化財

制作したのは仏師、蓮慶と記されていました。蓮慶は、かの有名な仏師、運慶の弟子とのことです。蓮慶は、三枝氏の氏寺である大善寺(甲州市)の十二神将をも手がけています。その縁で、この吉祥天を依頼されたのでしょう。

井原先生のお話を聞いて、当時の情景や人々の気持ちが、とてもリアルに感じられました。そして時代を越えて、人として素直に共感できました。講演を拝聴して、私の中で、先程までは美しい美術品として見ていた吉祥天像への見方は、大きく変わりました。この地域の人々の切なる願いの込められた、祈りの象徴なのだと思うと、その尊さが胸を打ちます。それが本来の存在理由なのだと気付かされました。この吉祥天像を介し、人間本来の素朴な感情に触れて、忘れていた何かを思い出せそうな気がしました。

講演会が終わって福光園寺の坂道を降りて行く時、甲府盆地を囲む山々が夕日に照らされていました。「あぁ…、昔の人々もこの景色を見たのかな…」と、ふと思ったのでした。
(取材:さっさ)

この山並みを昔の人も見たのかな…

【Google-map】福光園寺と、国分寺跡、大善寺の位置関係をご参照下さい。


より大きな地図で 福光園寺 を表示

 

ページトップへ

〒406-0834 山梨県笛吹市八代町岡513-5 Tel.055-287-8851 Fax.055-287-8852
Copyright 2009-2012 Fuefuki-syunkan.net. All Rights Reserved.